終末君に会えるなら、ぱらぱぱぱ

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会社を辞めた元理系大学院生ニートのぼやき

車は平気で兵器に

タイトルにダジャレをかまして寒い思いさせてすみません。記事の内容はいたって真面目です。。

車は平気で兵器に

tokunoriben.hatenablog.com

ぶっちゃけ僕が伝えたいことは、この↑記事が素晴らしく&わかりやすくまとめてくれているので、↑記事の方を読んでほしい。

上記の記事の内容はタイトルの表す通り、

車の運転って難しいのに、許されすぎてね?

ということ。

 

ニュースで定期的に流れてくるので、もはや慣れてきてしまっているのではないかと思うのですが、若い命が誰か一人の不注意運転によって亡くなりましたよね。

ほんと、悲しいニュースです。誰もが心を痛める出来事ですが...

 

今日も普通に車って走ってるんですよね...。

いやぁ...怖い...

もはや戦争

「交通戦争」という言葉、ご存じですか?

交通事故で、命を落とす人の数って戦争に匹敵するんです。

 

1日に交通事故で命を落とす人、なんと10人。

多い年だと、1年間で1万人もいるそうです。

 

この数、日清戦争で戦死した人の数1.3万人に匹敵する数です。

ちなみに引用元はこちらの文献です。

日本で1日に起きていることを調べてみた: 数字が明かす現代日本

日本で1日に起きていることを調べてみた: 数字が明かす現代日本

 

どうでしょうか...

僕はこの数字を見たとき、想像以上に多いと感じました。

僕らがニュースで見ているのは、ほんの一部なんだと。

 

これ、星新一さんのショートショートにもでてきそうな筋書きですよ..。

「晴れて戦争はなくなった!」

「テクノロジーが進化して便利になった!」

「いやー、今日も平和だなぁ」

そんな会話がなされているウラ側には、交通事故で多くの死者がいた...。

 

形を変えて今、この時代にも戦争は起きているといっても過言じゃないんです。

父の教え

僕は大学生のときの運転免許を取った。そりゃ、自分の手で運転できることが嬉しくて

「今度友達とどこへ行こう?」

などと妄想を膨らませていたら、父からこんなことを言われた。

 

人を乗せて運転したら、あかん!

!?

なんやと!?

なんのための運転免許や!?

と思ったけど、父の言いたいことはすごくわかる。

 

「人を乗せて運転して、それで仮に事故って、自分だけが助かることがあろうものなら、お前の人生真っ暗だぞ。いっっっっしょう、その罪を背負って生きていくんだぞ」

 

まじで、そうだと思う。

とはいえ、そんなこと言ってたら一生運転できんやん。の一点張りで、運転の許可は得れたんだけどね、、た、たぶん。

 

ただ、その父の忠告があるから運転する際はめちゃめちゃ気をつけてる。

「一瞬の気のゆるみが、一生の罪を生む」みたいなキャッチコピーを見たことがあるけど、ほんと一瞬でも気を緩めたらやべぇんだと。

人間はミスをするもの...なのに

車の運転は難しい。マジでいまだに理解できない車の仕組みがある。

  • ブレーキとアクセルの違いなさすぎ
  • 死角多すぎ

ブレーキとアクセルの踏み間違いで、コンビニに突っ込むという漫画みたいなことが、リアルで普通に起きてるし、

あれだけゴリゴリに金属でコーティングしてるもんだから、死角が多い。車の近くで子供がしゃがむと、運転席から見えないわけで、そういった可能性がゼロじゃないのに、発進するの怖すぎ。

 

そもそも車が使い物として安全性に欠けるものなのに、それを扱う人間がミスをする生き物だから、そりゃもう事故は起きるわけだ...。

 

例えば、飛行機の事故は起きにくい。なぜなら操作する人が超一流だから。運転許可を貰うのにものすごい技能が必要なわけだ。

ミスれば死の可能性があるというのに、対して車はというと、運転許可のハードルがものすごく低い。

もはやだれでも講習所へ通えば誰でも免許は取れてしまうし、一度取ってしまえば更新は実質講義を受けるだけで済む。

 

運転は難しい、操作する人間はミスをする、運転許可のハードルがものすごく低い...

もう、事故が起きる要因ありまくりです...。

どう対処すべきか

この戦争並みの脅威にどう対処すべきか...

それはわからない。

 

今すぐ車禁止!とはならないし、

高齢者免許剥奪!も厳しい

 

「もうしょうがない、これら死を受け入れよう」なんて身勝手な発言もできない。てかするべきではない。

 

僕一人が考えて解決法が見つかるなら、もうとっくに解決してる。

 

ただ、自分がどう動くかは自分で決められる。

それこそ、一瞬でも気を緩めたら、一生の罪をうむ、という意識を強く持つだけでも少しは変わるだろうし、

道を歩く際は、車に気をつける。「もしあの車が自分の方向に向かって進んできたら...」と少し想像するだけでも、運命は変わることだってあるだろう。

 

これは車に関してだけでなく、

一人一人の意識を変えることはとても重要なこと。

これだけは、言える。

 

国を作ってるのは、国民一人一人なんだから、

「国を変える」とは「国民一人一人を変える」ことに等しい。

 

ニュースを見て

「交通事故起きたんだ」

「悲しいね」

で次の日に忘れちゃダメなんだ。

 

免許剥奪・自動運転・交通法改正など、制度に解決を委ねちゃダメ。

だって、車を作るのも人、事故を起こすのも人だから、人が変わらないと根本的な解決にはならないんだと思う。

 

僕たち一人一人が自分の行動を変えられるかどうか、

たったそれだけのことで世の中は変わるんじゃないかと思う。

他人の気持ちを知ろうとする人になりたい|藤崎彩織 著「読書間奏文」を読んで

「他人の気持ちを汲める人でありたい」というのは常々考えてることだ。

なぜなら、誰かの何気ない一言で傷ついたことが何度もあるから。

藤崎彩織 著「読書間奏文」を読んで

アーティストのSEKAI NO OWARIが昔から好きで、一人でライブに行ったこともあった。

ボーカルの深瀬さんの声や考え方が好きだし、なかじんの活動っぷりはその裏のとんでもない努力量が見えるし、彩織さんの曲やライブパフォーマンスに対する姿勢が好き(あくまで、いちファンとしての僕の見え方)。

 

彩織さんは読書家でもあり、彼女自身も小説を書いていて、その初めての小説「ふたご」は直木賞の候補にノミネートされるほどの多才っぷり。

そんな彩織さんが2018年の末にエッセイ本を出した。

読書間奏文

読書間奏文

 

 早速読んだわけだけど、、、

びっくりした。

 

エッセイ本は読んだときに僕が感じることは

  • 純粋に読んでいて面白い
  • 著者独自の視点の意見が参考になる

そして、今回読んだこの「読書間奏文」は後者の「著者独自の視点の意見が参考になる」ポイントがふんだんに盛り込まれていた。

 

それは、もう、、びっくりした。

僕と彩織さんとの境遇の違い

見出しに「僕と彩織さん」と並列に並べてしまうのが申し訳ないくらいに、それぞれの境遇が違う。

なんと言っても彼女は超売れっ子バンドの一員だし、エンターテイナーであり、パフォーマーであり、作家であり、僕より年上であり、一児の母親であり...

もう何もかもと言っていいくらいに違う。

 

エッセイ本を通してそんな方の頭の中を覗いてみると、新しい気づきが多い。

 

例えば、アーティストとしての一面。

売れずに自分たちでライブハウスを作って借金を抱えて貧乏していた頃の話。

ライブに関するニュースで誤解を招く報道をされた話。

 

作家としての一面。

好きな作家さんの話。

処女作「ふたご」を執筆するときの話。

 

妊婦さんとしての一面。。。

 

などなど、それらを体験した人だからこその、苦悩であったり、喜びであったり、治験であったりが赤裸々に書かれていて、

僕はページをめくる度に「へぇ、そのとき、そういうことを考えていたんだ..」と、

「自分の中で勝手に作った彩織さんのイメージ」と「彩織さんの考え」のギャップに気づかされた。

他人の気持ちを知ろうとする人になりたい

彩織さんは、周りの人からの何気ない悪気のない一言について、あれこれと自分の考えを綴っている。

その言葉というのは、僕もかけてしまいそうなほど、ほんの些細な会話から出た言葉なんだろうけど、彩織さんにとっては重くのしかかることもあったそうだ。

 

「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」

これは、中国の孔子が言った有名な言葉で「自分がされて嫌なことは、人にするな」という意味だ。

これだけ聞くと「まぁ、そうだろうな」という内容だが、この言葉の裏にはこんなエピソードがある。

 

孔子の弟子である子貢が、

「私は人にされて嫌なことは、人にしないようにしています」というと

孔子はこういったそうだ。

「それは、私も目標にしているほど、とても難しいこと」

「お前ごときが、できるようなことではない」

 

たしかに、相手を傷つけてしまうような発言はしないように、と思っていても僕の何気ない発言が誰かを傷つけてしまっているかもしれない。

それは僕が他人の気持ちを汲めていないからであり、だからこそ無意識的に身勝手な発言ができてしまう。

僕自身が誰かの何気ない発言に傷ついた経験があることが、何よりの証拠だ。

 

「読書間奏文」を読んで。

他人の気持ちを汲めるようになるのは果てしなく難しいことだと思った。

世の中には人の数だけいろんな人がいる。

ひとりひとりの気持ちを汲むことはできないけど、目の前の人の気持ちを知ろうとすることならできる。

 

まずは、できることから始めてみようと思う。

ゴミ箱から溢れるゴミをみて

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先日ロッキンラジオという野外フェスに行ってきた。

フェスはめっちゃ楽しくて、最高の気分で会場を後にしようとした、そのとき。

会場にはゴミ箱が設置されているんだけど、そのゴミ箱には収まりきらないゴミが散らかっていた。それはもう、見るに堪えないくらいに。

ゴミ箱から溢れるゴミをみて

ゴミ箱には入りきらないので、誰かがゴミ箱の上とか横にゴミを放ったんだろう。そして、それを見たまた誰かが「じゃあ僕も、じゃあ私も」とあれよあれよと、ゴミが積もっていって、最終的にはゴミのなだれが起きるほど...。

 

情けねぇ...

それを見て、呆れとか、怒りとか通り越して情けなさを感じた。

出口にゴミ箱が置いてあったから、みんなその光景を見たと思う。

そして、僕と同じように多くの人が、嫌な気持ちになったことだろう。

 

「なんで、そんなことできるんだろう...」

きっとその人たちにとっては、「人に迷惑をかける」ことと「ゴミを持ち帰る面倒くささ」ことを天秤にかけたときに、後者が勝ってしまうのだろう。

 

ホント、情けないなぁ...。

情けないと感じたのには2つの理由が

一つ目の理由は、

それを片付ける人の気持ちを想像できていないこと。

当たり前だけど、その散らかったゴミを掃除する人がいるわけだ。

もちろん、ゴミを捨てた人もそれを知ってて捨てている。

 

掃除する人は決して良い気持ちにはならないだろう。

僕がその立場だったら気分が悪い。

「掃除をする僕らの気持ちがこの人たちにはわからないんだろうな」そう感じるだろう。

 

そういった人の感情を想像することができないのだろうか。

いや、もはやそれらを無視してる行為だ。

嫌な気持ちをすることを知っていてやっていることに、恐怖すら感じる。

 

 

そして二つ目の理由は、

みんながやってるから、僕も私も...という精神が情けない

自分の頭で正常に考えたのであれば、ゴミを散らかすなんて絶対しない。

 

「みんなやってるから、ま、いっか。」

「これだけ散らかってたら、捨てても変わらないか」

 

じゃねーよ!(いや、ホントにそう考えてるか知らんが、そう考えてるとしか思えん)

 

こういうところの集団意識って気持ち悪いなと思う。

「みんながやってるから」自分もやる。

行動の理由が他人任せなんよね。

 

なんのために頭ついてんねん。

自分の意思はどこへ行ってしまったんや...。

 

そして、それがいい方向に転ぶならまだしも、思いっきり悪い方向に転んでるからね。アメリカでは奴隷制度を取り入れている時代があったし、天体は地球中心で他の惑星がぐるぐる回っていたという天動説が当たり前のように信じられている時代があった。

 

ここで何が言いたいかというと、こういった個人の脳みそだけでは考えが及ばない、または対峙するものが大きすぎて対処できないものに対して、集団意識が生じるのはある程度しょうがないことだと思う。

 

ただ、ここで僕が言及しているのはゴミ箱。

ゴミはゴミ箱に。という小学生通り越してサルでもわかること。

気分を害する人が多くいるということだ

僕は野外フェスを後にする、その最後の光景としてゴミが散らかっているのを見た。

そのゴミを捨てたのはさっきまで、一緒に音楽を楽しんでいた人たちだ。

僕はそんな人たちと共にしていたのか...と。

 

気分が悪くなるのはそのゴミを掃除する人だけじゃない。

僕と同じように嫌な気持ちになった人もいるだろう。

だから、ゴミを散らかす行為は実害が及ばない人にまで、悪い影響を与えてるということだ。

 

フェスというイベントをみんなで楽しいものにするために、

そういった想像力を持って、

きちんと自分の頭で考えて、

行動したいものや。

僕等はもうブランコに乗れなくなった

ブランコに乗れない。

正確には、僕はもう「ブランコに乗れない」ということに気づいてしまった。

深夜23時に散歩中ブランコを見つけた

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最近は、在宅でパソコンに向き合う時間が多い。一日のほとんどをデスクで過ごしてると言っても過言ではない。

 

そんな僕がとる行動は散歩。散歩はいい。シンプルに座りっぱなしの怠けた体を動かすことができるし、春とも夏とも言えないこの季節は歩いていて気持ちが良く、気分のリフレッシュになる。

 

普段は川沿いを歩くんだけど、今日はちょっと変わった景色が見たくなって、いつもとは違う道を歩いてみた。今の家に住み始めて約半年、この散歩を機に家の近くに公園を発見した。

 

割と大きな公園で、うんてい、鉄棒、砂場、そしてブランコがあった。この公園を発見したときテンションが上がった。なぜなら

 

ブランコめっちゃ乗りたい...

 

と思ったから。

ブランコなんていつぶりだろう?

そんなことを考えてるうちに僕のお尻はすでにブランコにオン。

気温は約20度。ブランコに乗ってユラユラ揺れるのは気持ちがよかった。

 

...

 

.....

 

.........

 

ん?

 

これ大丈夫?と思った。

 

現状を整理する。

 

深夜23時。

25歳、男が

ブランコで揺れてる...

 

 

 

いや、怖すぎぃぃいい!!

 

 

 

僕が第三者として、その光景を目にしたら、恐怖以外の感情は起きないだろう。

 

「え、この人何考えてんの...?」

 

「え、もしかして見えちゃいけないもの見えてる...?」

 

怖すぎである。

 

それに気づいて、飛び出すように僕はブランコから離れた。

これがお昼だったらどうだろう?

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こんな奇行に走ったのにも関わらず、僕のブランコ欲は収まらない。もっと乗りたい...。

 

じゃあ、どうしたら変な目で見られずにブランコに乗れるだろうって考える。

 

夜に乗るからあかんのよね。

つまり、お昼ならOKってこと?

僕はフリーランスでしかも在宅で仕事をしているので、時間と場所に縛られることがない。いつでもブランコに乗れる(悦)。

 

じゃあ!明日はお昼にブランコや!

 

...

 

.....

 

.........

 

ん?

 

平日の昼13時。

25歳、男が

ブランコで揺れてる...

 

 

 

いや、何者ぉぉおおお!?

 

 

「あいつ、絶対ニートやん」

「ブランコ乗ってる暇あったら働けよ」

 

こう思われるに違いない...。

「公園行こうぜ」...とはならない

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うー...厳しい...

 

結局一人だからダメなんだ。

友達とだったら、上記の問題はクリア。

ノープロブレム。堂々とブランコに乗れる(嬉

 

よし、誰かと一緒に...

 

 

...

 

.....いやいや!!

 

「ブランコ乗りに行こうぜ!」なんて誘い文句に誰が乗るねん!!!いまどき小学生でもこんな誘いはしないだろう。

 

このスマホがある時代。YouTubeを見てれば一日があっという間に過ぎ去ってしまうこの時代にブランコて...。ブランコより面白いエンタメが生まれたことを悔やむ瞬間である。

 

僕「A子ちゃん!今度デートしようよ!」

A子「え!いいよ!どこ行く?大阪住んでるしユニバとか行っちゃう!?」

 

僕「いや、えっと、、公園...」

A子「え、講演?誰かの話聞きに行くの?(デートで講演て...引)」

 

僕「いや、パークの方..ブランコ乗りたい」

A子「(何言ってんだコイツ...)」

 

ーーーーーーーーーーーー

 

僕のブランコ欲はミスチルの「Tomorrow never knows」ばりにとどまることを知らないわけですが、策は尽きました。

 

ただ、「かけなくてもよい迷惑はかけるな」をモットーに生きている僕は、誰か人様に恐怖心を与えてまでブランコに乗ろうなどとは考えていません。

 

なので、結論

僕等はもうブランコに乗れなくなった

「独特な感性」ってなんやねん

いま、あいみょんの「君はロックを聴かない」をYouTubeで見てたんだけど、画面左上にでるテロップに「独特な感性で中毒者続出」と書いてあった。

そりゃみんな独特でしょ

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画像引用元:https://gqjapan.jp/culture/bma/20190307/aimyon-1995

アーティストのことを表すときに

「独特の感性」とか

「独特の世界観」とか

よーく書かれているけど、

そりゃ、そーでしょ!!

 

「独特」って言葉の意味は、

そのものだけが有していること。

 らしい。

こんなこと言ったら、元も子もないんだけど、みんな独特でしょ。

誰一人として同じ人はいないわけで...

 

特にあいみょんのようにテレビに出るような超有名なアーティストは、そりゃ独特に決まってる。

独特じゃない、どこにでもあるようなメロディーに、どこにでもあるような歌詞だったら、売れないのでは?

言葉が見つからないから片付けてるのでは?

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この独特の感性とか世界観とかって言葉は、音楽という目には見えないもの、言語化しにくい感情を、どう表現したらいいかわからないから、「独特」という言葉で片づけているだけのように思う。

特に、王道とは外れた、ちょっと一風変わったアーティストの紹介でよく見る..。

 

テレビ放送局は、別に音楽評論家じゃないし、一言でアーティストの特徴を書くのはとても難しいことだと思うので、しょうがないことだとは思いつつ...。

 

「そうやって書いておけばOK」みたいに受け取れてしまって、なんだか複雑...。伝えることがお仕事なわけだし...。

尾崎世界観さんの名前の由来

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画像引用元:https://rockinon.com/news/detail/180082

クリープハイプのボーカルである尾崎世界観さん。

彼のこの「世界観」という名前の由来は...

ライブを見た人に「世界観がいいね」と言われたことで、「曖昧な言葉でなくもっとちゃんとした言葉で言ってほしい」という思いもあり、そう言われないように「世界観」と名乗るようになった

引用記事:https://mantan-web.jp/article/20160327dog00m200030000c.html

 これまで、いろいろ自分の考えみたいに書いてきたけど、僕が考えるのはこの尾崎世界観さんの言葉の影響が強い。

メディアの役割のひとつ

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僕は音楽とか、アートとか、景色とか、そういったものを見て感じたことを言葉で表現することが苦手。

大半の人が苦手だから、それを言語化する音楽評論家がいて、その役割を担ってるんだと思う。

音楽雑誌なんかみると、アーティストの特徴を言葉たくみに紹介していて、ついそのアーティストの曲を聴きたくなるほど。

 

テレビというのは誰もがみる超巨大メディアなわけで、アーティストのことを紹介するわけだから、音楽評論家のような役割を担っているのではないかと思う。

読書をする理由は「裸の王様」にならないため

いまから約3年前から、読書の面白さに魅了されて毎日と言っていいほど読書をしてる。

そもそも大量の文字を読むことは苦手なんだけど、読書にはメリットがありすぎるので、仕方なく読む。

そんな僕が読書をする理由はたくさんあるんだけど、そのうちのひとつに「裸の王様」にならないため、というのがある。

ひとりの世界に住むと自分だけが正義になる

僕の仕事は在宅でできるものばかりということもあって、人と会う機会がマジで少ない。

僕は人よりも物事を深く考えることが得意なので、ひとり部屋にこもってこうやって文字を打つことが多い。

一人でそんなことばかりしていると、自分だけが正義になって裸の王様状態になるんじゃないかと、怖くなることがある。

 

そう考えたのも、いま読んでいる「大富豪からの手紙」という本にこう書いてあったからだ。

大富豪からの手紙

大富豪からの手紙

 

『失敗の理由』は、大きく3つに分けられる。

1つ目は「傲慢さ」だ。

成功し続けられる人は、『過剰なプラスが毒になる』と知っている人なんだよ。だから『人にほめられた』としたら、その瞬間にこう思うといい。『とてもありがたい。でも気を引き締めよう』とね。

 この言葉が今の自分に刺さった...。

大人になると褒められることは少ない。

 

ただその分褒められると嬉しい。

 

そりゃもう疲れが吹き飛ぶほど嬉しい。

 

有名人でもないからアンチもいない。

 

ただただ嬉しい。

 

 

そりゃ天狗になるわな。

 

ここのブログも天狗天狗してる

以前こんなブログ記事を書いた。

karukix.hatenablog.com

僕が毎日ブログを書く理由は、

  1. 共感者が欲しい
  2. 文章を書く練習
  3. 毎日書いてみたらどうなるか実験

こんなことを書いた。

あと付け加えるとしたらブログは、ストレス発散の場でもある。

 

僕が経験したことに対して、

世の中の不満について、

嬉しかったこと、

 

それらをそのまま文字にしてるだけで、その作業は自分の中に溜まっているものを吐き出す感覚に近い。だから、書き終えた後は、何を書いたか覚えてないことが多い。

 

このブログを書いてる自分ときたら、そりゃもう天狗も天狗。

 

いやーあぶないあぶない。

自分のことを過小評価することもダメだと思いつつ、

自分のことも客観的に見られるなくなるのはもっとアカンな、と。

 

なので、僕が褒められるようなことがあれば、

『とてもありがたい。でも気を引き締めよう』

と、心の中で言うようにします。

インプットとアウトプットの割合が大切

インプットってのは、本を読んだり、人と話したり、経験を積むこと。

 

アウトプットってのは、その知識や経験を活かすこと、自分の考えをまとめること。

 

こんな定義で、インプットとアウトプットの割合についてお話しようかな、と思います。

インプットとアウトプットはバランスが大事

最近こんな本を読みました。

図解 論語―正直者がバカをみない生き方

図解 論語―正直者がバカをみない生き方

 

この中で「正しい学び方」としてこんなことが書かれていました。

学んで思わざれば即ちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし。

論語というのは、中国のめっちゃ有名な思想家である孔子の教えが記された書物で、孔子さんこんなこと言ってたらしいんです。

 

ただ、このままだと意味がわからないので、現代語訳すると

外からいくら学んでも自分で考えなければ、物事は本当にはわからない。自分でいくら考えていても外から学ばなければ、独断的になって誤る危険がある。

「外から学習する」ということと「自分で考える」というのはバランスを取ることが大切ということなんです。

僕の実践例

僕のインプット材料

本、会話、TwitterYouTube、行動によって得られた経験すべて

 

僕のアウトプット方法

ブログ、ラジオ、YouTube

 

ただただ本を読み漁っていてもダメだし、

人脈づくりや刺激になるからと言って人と会っていてばかりでもダメ。

 

良質なインプットはアウトプットを前提としたものだと広く言われる。

だから、本を読むときも「あとで誰かに本の内容を解説するつもりで読む」とか「自分だったら本の内容をどう活かせるだろう?」と考えて読むと超効果的、ということ。

 

で、僕が「あとで誰かに話す」とか「活かす」方法としてとっているのが、このブログだったりする。

 

得た知識を、自分の考えと絡めて形(文字・言葉)にするのは、案外難しい。

あれこれと頭の中で考えたつもりでも、文字にしてみると5-6行で済んでしまう程度のことだったりするし、

自分の中にある感情を、読んでいる人にもわかるように言葉にするのは、語彙力や表現力が必要。

 

そうやって、アレコレ考えていると、インプットした内容が自分の中でさらに色濃く残る。

成長するためにはまずはアウトプット

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じゃあ、インプットとアウトプットのバランスのいい割合ってどれくらいなの?

という人にはまずは自分の出来る最大限アウトプットしきっちゃうことがおすすめ。

 

自分が経験したこと・その経験によって生まれた考えは、あなただけのもので、この世にひとつしかない。

それはもう、とても大きな価値なので、ブログやYouTubeで発信しまくる(日記でも全然いいけど)。

 

自分の中にあるものを出しまくると、いずれは枯渇する。

アウトプットするものがなくなる。

 

次にアウトプットするための方法としてインプットをする。

こうすれば、次のインプットは必ずアウトプットを前提として取り込むことができるし、インプットとアウトプットの割合は等しくなる。

だからおすすめ。

最近の僕の話...

気づけば、ブログ2つ・YouTube・ラジオと自分の考えを発信する媒体が増えてきた。

こうやって「発信したらもしかして役に立つかも」ということを発信しまくっていると、インプットが足りなくなってくる。

 

なんか最近は知識欲がグイグイきておりまして、

本は5-6冊くらい一気に買ってしまった...。

 

また、おもしろい本とか、体験をしたらココで共有したいと思いますので、お楽しみに!!!!!!!!!!!!!!!!