「人の迷惑は許せ」と言うが、許すかどうかは自分が決めることじゃない
「日本は、人に迷惑をかけることは悪いことだと教育される。ただインドでは、どうしても人に迷惑をかけてしまうのだから、他人の迷惑も許してあげよう、と教育される。」
だから、迷惑は許そう。
みたいな、話をよく聞く。
僕は男女共同のシェアハウスに住んでいる。
このブログを書いている今は3月14日の深夜だ。
僕の隣の部屋には女の子が住んでいるんだけど、ホワイトデーの夜ということもあって、男を連れ込んで大声で会話をしている。。。
その大声で繰り広げられる会話で目が覚めた。
寝れん...眠い....。
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これも許さなきゃダメですか?インドの人たちぃぃいいい!!!!(涙涙
- そもそもシェアハウスに友達を呼ぶ際はオーナーにお金を払う必要がある
- 時間が深夜過ぎる
- 会話が終わったと思ったら映画鑑賞が始まる
もう、迷惑だらけである。
僕は、自分がけっこうずぼらな性格なこともあって、あまり人に苛立つことがない。
だから、インド人の他人の迷惑は許そうという教えは「うんうん、そうだよね、その方が平和だよね」なんて呑気に賛同していたんだけど、、、考えが変わったゾ。
そもそも迷惑ってものは、許しがたい行為だから迷惑なんだ。人によって許しがたいことはそれぞれだから、迷惑かどうかは行為によって、決まるのではなく受け取る人による。
例えば「電車でマクドナルドを食べてる人と同じ車両に乗って匂いがきつかった」ことがあったとしても、僕は構わない。
ただ、ある人にとっては「いや、匂いきつすぎ、勘弁してくれよ...」と許せない行為かもしれない。
こうやって迷惑と感じるかどうかは、その人の感性による。感性はその人に備わっているものだ。
つまり、迷惑だと感じるかどうかは自分で決めることができない。
「(他人にされた行為に対して)うーん、、これは迷惑か?迷惑じゃないか?、、、どっちだろう、、、??」なんて考えない。
直感的・反射的に「は?ふざけんな!」と感じる許しがたい行為だから迷惑なんだ。
だから、インド人の教えって「許せない行為を許そう」という矛盾が生じてるんだよね。
大発見やな。やっぱなにごとも他人の言うことを鵜吞みにしちゃいけない。
とんだ矛盾を飲み込まされるところだった。あぶない、あぶない。
こっからすごく大切な話なんだけど、
「許しがたい迷惑な行為」を、まー、許したるわと「やっぱり許しちゃう☆」に変換しようとすることは大切だと思う。
むしろ、インド人の教えってここが本質だよねきっと。
海を越えて日本に伝わる過程で大事な本質の部分がそぎ落とされてるよ。
「シェアハウスで深夜に大声で会話されてそれで起こされる」という大迷惑を被った僕は考えた...。
どうやったらこの迷惑を許してあげることができるんだろう?って。
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ブログのネタにしちゃおう(ニヤリ
というわけで、この記事が出来上がりました(ホヤホヤ(/・ω・)/
本ブログは毎日投稿を地味に目指していまして、毎日となるとネタに困ることがあるんですね。
ところがどっこい、今日はなんてツイているんでしょう!
深夜の4時の段階、まだ一日が始まってもないような時間に記事が一本仕上がったではないか!
それも「シェアハウスで深夜に大声で会話されてそれで起こされた」おかげである。
そのうえ、この記事にスターが付いたり、コメントが来たら、僕は隣部屋の女の子にホワイトデーのお返しの気持ちばりに感謝するかもしれない。(大切なことなので読み手の迷惑をかけてしまうほど大きい文字で書きました)
ネタ提供ありがとさん!!!!
眠すぎるので頼むから静かにしてくれ!!笑
おやすみ!!!!!